ART

Yoshiko & Bruce Osborn

 
   

Interview & Photo by Shizuo “EC” Ishii

2014年7月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

映画「OYAKO」が完成して、あちこちで上映されている。この映画の張本人ブルース・オズボーンと佳子さん。本当に仲の良いカメラマンとプロデューサーであり夫婦。来日した時からず~っと知っているけど、喧嘩することはあるのか?実は俺の最大の疑問。まず、そこから。

Bruce Osborn(以下、B):喧嘩はしないよ。

●ハッハッハ。そうだよね、仲が良いんだよね~。日本に来た時って何歳だったの?

B:80年だからちょうど30歳。

●30歳か~、もっと若かったような気がしてたけど。

佳子(以下、Y):最初来た時は78年かな。日本に住む前だったけど。最初の展覧会をした時は30歳になってなかったかな。

B:最初の頃、石井さんにはいろんな人をいっぱい紹介してもらったね、ペーター佐藤も紹介してくれたし。ハリウッドランチマーケットのゲンさんにもその時代のキーパーソンを、、。

Y:会った人達が、また人を紹介してくれたのはありがたかった。日本って仕事する場合、学校が一緒とか、何か共通するベースがあってネットワークがあるから、外から来た人にとってはなかなか難しいかなって思いながら頑張って来たんだけど、30年以上経ってその頃に出会った人達との間にベースが出来てる。やっと日本が自分達のホームベースになったって感じはするよね。

●俺もゲンさんから展覧会のハガキをもらって出掛けたんだ。ブルースは日本に住むのに迷いはなかったの。

B:佳子と結婚した時、佳子の仕事が日本にあったから年に2回くらい日本に来る事があった。来る度に、石井さんみたいな人達と知り合いになって、段々知ってる人ができたので少し安心だった。その頃の日本、特に東京は、楽しそうな仕事で溢れていたよね。だから、可能性がたくさんあると思ったし、凄く楽しそうだったよ。その頃のLAは音楽産業が盛んだったから、仕事と言えば音楽関連のもの。でも東京はファッションもあったし、広告も雑誌もクリエーティブな表現を追求していた。自分のスタイルで色々とチャレンジが出来そうな感じがした。最初に展覧会をした時の作品がソニーの広告に採用されたり、プレイヤー・マガジンも、展覧会の作品を使ってシリーズでやってくれたり。その頃SMSレコードの社員だった頃の安齋肇さんに会ったり。

Y:なんか段々お友達が増えていって、いつの間にか30年以上。こんな風に定住するとは思ってなかった。

B:言葉は問題あったけど、何度も来ているうちに、いい意味で変なやつと知り合って、日本の新しい発見をする。音楽は似てるけどちょっと違う、ファッションも似てるけど違う。ベースは一緒だけど自分にとっては新しいフィーリング。浅草のボードビリアンや昔の下町の芸能人も、僕にとっては新しくって興味があった。日本のエンターテイメントのルーツみたいな人にもいっぱい会えたしね。カメラマンの目から見たら面白いものだらけだったよ。

Y:最初に浅草に住んだのも凄くラッキーだった気もする。

●なるほどね。あの千束(台東区)のお酉様の近くだったね。お酉様の日ゲンさんも来たことがあったね。浅草に住んだっていうのがひとつハマったっていう事だね。

Y:その頃、雑誌で「日本のSOHOが浅草に」とかいう特集もよく組まれてたし。

B:最初は知ってる人も少なかったけど、雑誌に紹介されたら、インタヴューしたいとか仕事頼みたいとか、いっぱい連絡をもらったから、日本の情報のネットワークは凄いと思った。

Y:その頃は外国人のカメラマンってあんまりいなかったんだと思う。だからみんなが興味をもってくれたのもラッキーだった。

●でも、まずは作品だったよ。作品のインパクトがあったよね。だからそれで注目されたんだと思う。その頃は、たしか日本とアメリカの両方で仕事したいみたいなこと言ってたよね。

Y:結婚する時に、私がアメリカに行って英語を喋ってアメリカの文化に触れたように、ブルースにもいつか日本に住んで日本の私の文化を知って欲しいっていうのは約束してたの。たまたま小西六ギャラリー(日本橋)の展覧会があった時に色んな人が来てくれて色んな人とお友達になって、写真展が終わってアメリカに帰る飛行機の中でブルースに、「いつか日本に住んでってお願いしてたけど、それって今なんじゃない」って。それで帰ってからすぐに仕事の整理をして3ヶ月くらいして日本に戻ってきたの。でもこんなふうに30年って考えてたんじゃなくて、少しの間、日本の生活をして欲しいと思っていたので、スーツケースはブルース1つ、私も1つで来たんだけど。住むうちに実佳が生まれ由良が生まれ、スーツケース2つじゃ納まらない程いろいろなものが増えてきて、段々こっちに長く住む様になってきた。今では、ブルースはアメリカに住んでいた時間よりも日本に住んだ時間の方が長くなったの。

B:なりました。

●日本語学校に通ってたこともあったよね。でも俺の知ってる外人さんの中で一番下手(笑)。普通3年で喋れるからね、そこそこ。あはは。

Y:天才なんですよ、ブルースは。目が発達した分だけ耳の方の発達は遅かったんです。

B:本当は反省しているよ、もっと日本語勉強した方が良かったと思う。

●そうかなぁ、あはは。

Y:生まれ変わったら日本人に生まれてもっと日本語上手く喋りたいっていうから。

B:日本語を読めれば大分生活が楽になるって思うこともありますよ。

Y:日本に来てすぐ忙しくなっちゃったっていうのもあって、勉強をしっかり出来なかったことも事実。それは良い事でもあるんだけど。

●はっきり言えば仕事が出来たんだよね。ちょっとした英語でもイエスとかノーは日本人もみんな分るし、仕事には支障は無かったんだ。多分ブルースは、他の事を考えちゃう人だと思うよ。俺なんか本を読んでて途中で違う事を考え始めたり、自分の意見が出ちゃって、最後までいかなくてつまらなくなっちゃうっていう事がほぼ全て。本を1冊読むのに15年くらいかかったのもある。ブルースって常に何か考えてない?

Y:いつも絵を描いてる。

●そうだ、浅草の時からそうなんだよ、変な顔をず~っと一筆書きで描いてた。

Y:まだ描いてる。

B:学校行きながらもずっと写真のアイディアを考えてたりして、しっかり勉強しなかった。

Y:そういう生徒いるもんね。違う事を考えている生徒、落書きとかいたずら書きしている。

●ブルース・ワールドが強くあるんだね。それはクリエィターに一番必要なことだ。

Y:ブルースが日本語がペラペラに喋れたらああいう写真は撮らないかもしれないし、言葉でコミュニケーション出来ない分、形を作っていくっていう思考回路になったんだと思う。

B:そのポジティブな考え方に助けられてる。

●では、色んなとこで話してるとは思うけど、写真で「親子」を撮るきっかけっていうのは?

B:S-KENが企画した雑誌「Pin Head」(83年刊)のテーマがパンクで、アナーキーの仲野茂を撮ることになったんだ。どんなふうに撮ろうかな~って色々考えて、最終的に「親の顔が見てみたい」って思ったのがきっかけ。

Y:親子のジェネレーション・ギャップが面白いかなと思って撮ったんだけれど、撮ってみたら違いよりもギャップよりもなんか似てるところの方が逆に写ってそこが面白かった。

B:ちょうど長女が生まれる前で、自分がお父さんになる時期だったことも影響してたと思うね。

Y:その頃、24人のメンバーで運営するNEWZっていうギャラリーが六本木にあって、ブルースもそのメンバーの1人だったの。1年に1回、1人が2週間ずつ展覧会をするんだけど、その時にブルースは「親子」の展覧会をしたんです。ペーター佐藤や坂本龍一さんとか日比野克彦さんなんかも一緒だったよね。

B:その頃は、「親子」写真を撮って日本の文化を表現したいと考えていたから、刺青の彫り師とか、お坊さん、消防士、警察官、寿司屋、芸者とか、ユニホーム着た人たちを最初40人くらい撮って展示したのかな。そのあとで、渋谷の駅近くにあった西武のSEED館でも写真展をしたんだけど、今度はNHKのニュースをはじめ、テレビ局がみんな取材に来てくれてビックリ!

Y:写真集も出版したので、新聞や雑誌も取材に来てくれたよね。

● その頃って、他にはどういう仕事をしていたんだっけ?

B:原宿ラフォーレとか池袋のサンシャイン・シティとかの広告写真を撮ったり、米米クラブとかオリジナル・ラブとかThe BOOMとか、色々なミュージシャンの写真を撮ったりしたりしてた。

Y:親子写真も、「NTTトークの日」みたいなコマーシャルのコンテンツになって新聞広告のシリーズになったりしました。

B:他の会場でも「親子」の写真展をやりたいと言ってくれたので、ほとんど毎年のように写真展をする機会があって、その度に新しい「親子」の写真が必要で撮ってたし、雑誌の仕事でも「親子」写真を撮る機会があって、いつの間にか「親子」写真がライフワークになってきたんだ。

●映画の中で「5000組撮った」って言ってたけど、32年間って事は1年にすると、、、。

Y:ここ10年だよね、もの凄いたくさん撮り始めたのは。年々撮影する親子の数が加速してる。

B:最初はどっちかっていうと展覧会の為。例えば大阪で展覧会があると大阪の人を撮ったり、金沢で展覧会をするといっては金沢の親子の写真を撮ったりしてきたんだ。

● 俺が最初にブルースの作品を見たのはコラボレーションの作品だったよね。

Y:そう言えば、日本で最初の展覧会の作品は、The Screamersというパンクバンドのボーカルだったトマタ(Tomata du Plenty)を撮って、そのプリントにその頃活躍していたLAのアーティストやディレクターとコラボレーションしたものだった。ゲーリー・パンターやルー・ビーチとか・ミック・ハガティ・・

B:コラボレーションは好きなんだ。他にも友達の人形アーティストがつくった人形を撮った作品とか、パンクブームのファッション写真とかも展示したんだ。

Y:覚えてる?人物サイズの人形のオブジェを色んなとこに置いて撮ったやつ。コラボレーションという意味では、その時もアーティストとのコラボレーションだったし、映画も言ってみればコラボレーションの芸術だね。

●カメラマンってそんなにはコラボレーションしないで、自分の作品で完結するっていうか、基本的に触れられるのが嫌な人が多い気がするけど。

B:僕は写真撮影そのものが、コラボレーションなんだと思ってる。被写体と一緒にコラボレーションするっていうか、写真を撮るのはキャッチボールするようなもの。相手とフィーリングのやり取りをしながら、段々とリズムが一緒になってくるんだ。そう、ジャム・セッションみたい。最初は僕がアイディアを投げるケースが多い。じゃあこれをしようかって「カカカカカン」って、相手は「ドゥードゥドゥドゥ」って。そのうち段々シンクロしてくる。

●ブルースのやり方なんだね。今度の映画もコラボだったけど、実は先入観があって、ブルースが「親子」というテーマの写真から派生した動画を撮ってるんだと思っていたんだ。でも映画「OYAKO」を観たらブルースを撮影したドキュメンタリー的なのが出来ていた。だから別に監督がいて、でもその中にまた違うショート・ストーリーみたいのがあってね。

B:分かりにくかった?

●こういうのもありなんだなと思った。本当の監督って誰なんだろうとは思ったけどね。

B:今回の映画は、自分のしてきたことが中心だから、自分で監督をしたらナルシストみたいな感じになるような気がしたんだ。だから自分は監督の立場じゃないほうがいいように思ったんだ。

●俺は3人の監督がいるんだなと思ったけどね。

B:コラボレーションかな。

Y:そういう考え方がまた面白いね。監督同士のコラボみたいな。ブルースが何で監督をしなかったのって言われる時もあるけど、でもブルースの話だからブルースが監督っていうのは立ち位置として微妙じゃない。それで、やっぱり監督って要るのかなと思って。

●なるほど。プロデューサーは、そう考えた。

Y:私は総合プロデューサーだったけど、とにかくはじめての経験なので周りから支えてもらいながらやっと出来た感じ 。

B:映画を作るアイディアは最初、佳子が考えたんだ。

Y:2年前くらいかな。親子の日がちょうど10周年を迎えたから何か記念になる事をしようっていう事で、最初は展覧会を考えていて、自分たちがやりたいイメージの展覧会をする為の予算を組んだりしていたら、めちゃくちゃそれが高くなることがわかって。そんな高額のお金を使っても1週間とか2週間で取り壊す展覧会は勿体ないと思ったの。それで、何か形に残るものにした方が良いんじゃないかと思っていて、実は映画を作ろうっていう夢を見たの。

B:朝起きて「ブルース、夢で見たんだけど映画を作るっていうのはどう?」って。寝てる時でも、気になってることはいつも考えてるよね。制作予算もクラウド・ファンディングで不特定多数の人たちからも資金を提供をしてもらったんだ。

●俺もジャマイカの映画作ったけど、大変だよね。ブルースはあと2つ~3つくらないと。

B:まず1回作ったから満足。

●監督の猪股敏郎さんは、今までにも一緒に仕事をしている人?

B:色々やっているよ、カンヌでテレビのコマーシャルのフェスがあるけど、そこで銅賞を取った作品もある人。

Y:いくつか一緒にコマーシャルの仕事をやったことがある人。12年前、7月の第4日曜日を「親子の日」にしよう!!って、ブルースと私でみんなに呼びかけて「親子の日」をスタートしたんです。「親子の日」当日は、100組の親子をスタジオに招待して1日中かけて撮影して、プリントをプレゼントするという日。猪股さんも、第1回目の「親子の日」にスタジオに娘さんと一緒に来てくれたんです。今年で12回目の「親子の日」なんだけど、猪股さんはずーっと「親子の日」のサポートメンバー。 猪股さんはいつも「映画を作りたい」って言ってたから、映画を作る時の監督は猪股さんの役割かなと思って猪股さんに頼んだの。

B:震災があった年の6月に、東北に行って親子の写真を撮影して、被災者にプレゼントをしたんだけど、その時から猪股さんはいつも一緒に来てフィルムをまわしてくれて、それを編集してNHK国際放送の番組を作ったのが、映画の中で使っている東北のシーンになっている。

Y:HNKが、311にフォーカスして 『Forever』っていうシリーズの番組を作ったんですけど、その中の第1回目の作品として紹介されて、シリーズの中では評価が高かったの。だから、映画を作るって決めた時には「猪股さん一緒にやろう」ってお願いしたの。

●では、最後に映画について一言。

Y:そもそも映画を作る目的は、「親子の日」をみんなにもっと知ってもらう為のツールとして作ったから、そういう意味ではこれを観てもらったら「親子の日」を知ってもらえると思うし、「親子」というものをみんなが考えるきっかけにはなると思います。クリエィターとしてのブルースを描くんだとしたら、また別なアプローチがあったかもしれないとは思いますが、この映画は「親子の日」を普及するひとつのツールという認識。「親子の日」のスタッフがみんなで作った大切な作品。沢山の人に観てもらって、私たちが「親子の日」に込めた思いを一緒に考えてもらいたいです。作家としてのブルースに寄った映画を作りたい時期が来るのかもしれないし、そこはまた次の課題として残しておきたいな。

B:映画は写真とは違って動画映像なので、見せ方が違うという楽しさがある。初めてだから自分も勉強しながらやったけど、一生懸命頑張りました。ムービーはスタッフがたくさんいるから、究極のコラボレーション。いい経験が出来ました。

http://oyakomovie.com