MUSIC

EEK-A-MOUSE

 
   

Photo & Interview by Koji Yawata

2017年10月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

2m近い長身から繰り出す「♪ばんばんでぃ~」と言う超オリジナルの脱力スキャットで押して押して押しまくってそろそろ40年のイーカマウス。初来日の彼にディープ・インタヴュー。

●改めてバイオを確認させてください。

EEK-A-MOUSE(以下、E):57年生まれだ。いや、「ミッキー・マウス」が名前の由来ではない。俺はオリジナルなマウスだ。もともと「イーカマウス」という名前の馬がいたんだ。競馬に。毎回負ける馬だったんだけど、毎回その馬に賭けていたんだ。ただ、ある時に一度だけ賭けなかったんだ。そしたらその時だけ勝ちやがったんだ。そんな出来事があったりして、周りが自分のことを「イーカマウス」と呼ぶようになったんだ。

●そうなんですね(笑)。

E:最初は本名のジョセフ・ヒルトンとして始めたんだ。「My Fathers Land」が最初の曲だ。74年だ。自分でEEK-A-MOUSEというレーベルからリリースしたんだ。「イーカマウス」と呼ばれるから、そのレーベル名にしたんだ。ただ、もう自分のことを周りが「イーカマウス」と呼ぶ中で自然とアーティスト名にもなったんだ。

●いつから歌い始めたんですか?

E:いつから、って・・、そりゃ子供の時だろ。日曜の朝は教会に行くだろ。そこで歌うだろ。5歳ぐらいで人前で歌って小銭をもらったりしたよ。特に歌い始めるきっかけなんてないよ。周りに音楽は流れているしな。スカからだ。スカからロック・ステディ、レゲエって続いている感じだ。

●初めてイーカマウスさんの曲を聴いた時に、歌詞の「ばんばんでぃでぃんでぃん~」とかに衝撃を受けました。イーカマウスさんのオリジナルなスタイルですが、それはどういったきっかけなんですか?

E:カレッジの時だ。イカれた先生がいたんだ。その先生がピアノを弾くのに合わせて歌わされたんだ。でも、即興の演奏で歌詞もないから、仕方なく「ばんばんでぃ~」って歌ってたんだ。それを友達が「良いからもっとやれ」って言ったんだ。それがきっかけだ。人の意見は聞くべきだ。

●ブレイクしたのはヘンリー“ジョンジョ”ロウズのVOLCANOからの作品からだと思っていますが、それ以前にもJOE GIBBSとかからリリースしたりしていますよね?

E:ジョー・ギブスは近所だったからな。それで何曲か録ったりした。ああ、エロール・トンプソンがエンジニアだった。ただ、自分とはあまりスタイルが合わなかっただけだ。あと、それは時期が後だけど、リタ・マーリーからTUFF GONGと契約する話ももらった。実際にボブ・マーリーのバンドとセッションしたりもしていた。ああ、そうだ、ザ・ウェイラーズだ。ボブ・マーリーのホープ・ロードの家にも出入りしてた。色々と見た光景もある。

●ジョンジョとはどうやって出会ったんですか? ご自身から出向いたんですか?

E: 俺からじゃない。ジョンジョが俺のところに出向いて来たんだ。俺はサウンド・システムでも歌っていて、その評判を聞きつけてジョンジョから俺のところに来たんだ。当時のジョンジョは、まだリンヴァル・トンプソンの知り合いぐらいな感じのヤツだった。

●そのジョンジョとの出会いによって、大きくブレイクします。

E:そうだな。ジョンジョと最初に録ったのは「Noah’s Ark」だ。UKのGREENSLEEVESで12インチでリリースされてUKでもヒットした。80年だ。

●そのジョンジョのVOLCANO、ジョージ・パンのPOWER HOUSEとかを中心に、現在で言うところの「80年代ダンスホール」が盛り上がっていきます。イーカマウスさんはその中心にいました。それは何をきっかけにして盛り上がったか教えてもらえますか?

E:ボブ・マーリーが死んだからだ。81年に。それまではボブ・マーリーがリーダーだった。ボブ・マーリーがルーツ・ロックだったから、みんなそれをトレンドとして追ってた。ボブ・マーリーが死んだことでプロデューサー達は追うことをやめた。新しいものを求めるようになった。それがきっかけだ。

●では、ジョンジョとかはそれを見抜く感覚に優れていたんですね。

E:いや、ジョンジョはプロデューサーであっても、所謂エグゼクティヴ・プロデューサーみたいな立場で、実際の楽曲をプロデュースしてたわけではない。ミュージシャン、アーティストとかをスタジオに集めてレコーディングさせたりはしていたけど、実際の楽曲は俺達が作り出していた。

●ジョンジョと言うと、スタジオはチャンネル・ワン、バンドはルーツ・ラディックス、エンジニアはサイエンティストのイメージがあります。

E:そうだ。ジョンジョから「何曜日にチャンネル・ワンでセッションする」と連絡があるとみんなで集まったんだ。イエローマン、バーリントン・リヴィ、リトル・ジョン・・、そこで、ルーツ・ラディックスとセッションして作ってたんだ。

●何名かの他のアーティストの名前も出ましたけど、当時にライヴァルと感じていた人はいましたか?

E:ライヴァル? いないよ。みんな自分達のスタイルを持ってた。それをみんなが追求していた。お互いをそういう見方はしたことはない。

●ルーツ・ラディックスのことも聞かせてください。彼らの存在も「80年代ダンスホール」にも、イーカマウスさんのブレイクにも大きく貢献したと思っています。

E:それまでのスタイルとは違っていた。スタイル・スコット(ドラマー)は軍隊出身で、軍隊の楽団の叩き方、それを持ち込んだ。ミリタリー・スタイルだ。フラバ・ホルト(ベース)もこんな感じで(と実際にベース音を歌ってみせて)、そうだ、それまでよりも音数を減らしてタイトに弾くんだ。あと、ドワイト・ピンクニー(ギター)もそうだし・・、そうだな、バンドとしてもだけど、メンバー全員がそれぞれにオリジナルのスタイルを持っていて、それが新しかったんだ。

●ジャマイカ国内でブレイクし始めたイーカマウスさんが世界に知られるきっかけとして、81年の「レゲエ・サンスプラッシュ」でのショーがよく言われます。

E:「レゲエ・サンスプラッシュ」は当時の一番のフェスティヴァルで世界からも注目されるものだった。毎年7月に開催で、その年はその直前の6月ぐらいから俺はヒットを出しまくっていた。俺が一番勢いのある存在だった。ただ、その時点で主催者のシナジーは出演アーティストを全てブックし終えていて、俺は呼ばれなかったんだ。

●では、どうやって出演したんですか?

E:自分で行ったんだ。モンティゴ・ベイに。宿も取らずに。グレゴリー・アイザックスとかにも「行けば出れる」みたいに言われてな。会場に行ったら、みんなが「イーカマウスだ!!」だ。シナジーも。でも、一緒にやるバンドがいねぇんだ。バンドは金もらわないとやんねぇから。そしたらスライ(・ダンバー)に会ったんだ。ヤツも「イーカマウスだ!!」って感じだ。スライとはヤツがスキン・フレッシュ・アンド・ボーンズのバンドとかで演ってる時に知り合っていた。そこで、ヤツがロビー(・シェイクスピア)を呼んで、俺の曲のドラムとベースのパターンを確認したりしたんだ。それをショーのMCだったトミー・コーワンが知って、スライ&ロビーがステージに上がっている時にトミー・コーワンが突然俺をステージに呼んだんだ。ああ、それでショーをすることになってマッシュ・アップだ。客も俺が出るとは知らないし、誰もが一番観たいアーティストが出てきたからな。リハも演ってないままやったんだ。その俺のショーがその年の「サンスプラッシュ」の一番の話題になったんだ。

●では、スライ&ロビーとトミー・コーワンがいなかったら出てなかったかもしれないですね?

E:そうだな。翌年はすぐに呼ばれたよ。しっかりギャラも貰ってな。

●そこから世界にも進出していくようになります。

E:アメリカだ。最初は西海岸とかを回るツアーだ。『WA-DO-DEM』はUKのGREENSLEEVESからもリリースされていたけど、USのRASレコードからもリリースされてた。ドクター・ドレッドのところだ。ギャラの代わりにガンジャを渡されたりして、「それを売って金に代えろ」みたいな時代だ。俺はしないけどな。人にあげてたよ。

●そうしてイーカマウスさんは世界に知られ、また「シングジェーのパイオニア」とも言われるようになります。

E:ロジャー・ステファンスだ。アメリカのジャーナリストだ。ヤツが俺の初めてのアメリカ・ツアーで、俺が「ばんばんでぃ~」とDeeJayみたいに歌った後に「あーりーもーにんぐ」ってシンガーみたいに続けて歌うのを見て、それをメディアで「シングジェイ」とか、そう俺のことを書いたんだ。俺から言い出したコトではない。それは他人からの評価だ。

●ディスコグラフィーを確認すると、ジョンジョとの作品がGREENSLEEVESからリリースされて、世界に届けられたコトは大きく貢献していると思います。

E:それは間違いない。その通りだ。GREENSLEEVESからリリースしてもらったコトには感謝もしている。ただ、俺がGREENSLEEVESと契約していたわけではない。ジョンジョがGREENSLEEVESと契約していて、その中で俺の作品もいくつも制作されたりしてた。俺の作品は売れたから、ジョンジョもGREENSLEEVESも俺の作品を求めたんだ。

●「売れた」と言いましたけど、ジョンジョからその分は支払われていたんですか?

E:いや、全く。だから、一度ジョンジョと揉めて逮捕されたのは、ジョンジョが「アルバムを一枚作れ」って言って来た時に「その前に前回のアルバムの金をくれ」って言い合いになったのがきっかけだ。まぁ、何年かして仲直りもしたけどな。まだ当時は誰も現在みたいに印税とか出版権とか知らなかったしな。

●90年代になるとイーカマウスさんは映画『ニュー・ジャック・シティ』に出演されています。少し意外だったんですけど、アレはどういった経緯だったんですか?

E:NYのショーの時にマリオ・ヴァン・ピーブルズ(同映画の監督)に声を掛けられた。俺が衣装を着ていて、それですぐにわかったみたいだった。

●衣装と言えば、色々と奇抜なコスプレみたいな格好をしてきてますよね。自分が初めて観た時もバットマンかなんかの格好をしていたのを覚えています。

E:自分からそれを始めたわけではないんだ。アメリカにショーで行った時に関係者の奥さんが衣装を用意してくれたのがきっかけだ。それで衣装で客の反応が変わるのを知って意識するようになった。ツアーで行く街のコトを調べて用意したりしてな。イギリスのロビンフッドの発祥の地ではロビンフッドの格好したりしてな。喜ぶしな。

●そうやって世界各国を回られて来てますけど、今回が初めての日本です。どんな印象ですか?

E:人、食べ物・・、全て気に入ってる。規律も正しいしな。日本のレゲエの状況もユニークだな。こないだのショーの時には中学生ぐらいのセレクターもいたけど、レゲエやダンスホールが浸透しているのを感じているよ。

●今後のプランとかありますか?

E:新しい曲や作品も予定しているよ。まぁ、プロデューサー次第かな。続けていくよ。

●長く続けて来た中で、続けて来れた理由、一番大切なコトってなんだと思いますか?

E:うーん・・、そうだな・・、FUN(楽しみ)かな・・。うん、楽しませること、楽しむこと・・、うーん、まぁ、例えばだけど、自分の「ばんばんでぃでぃんでぃん~」とかも、現在となっては、世界中で小さな子供達がそれを真似して歌ったりする曲になってたりするんだ。ガンジャとかそういうコトは関係なくな。そういうことも長くやって来た中では面白いことだし、楽しいことだよ。そうなることもいいことだと思うしな。

●ああ、小さい子供が「ばんばんでぃでぃんでぃん~」とか遊びで真似して歌うのは想像できますね。

E:ああ、そうした子供達にとっては「イーカマウス」ってのは楽しい歌のキャラクターなんだ、ミッキー・マウスみたいにな(笑)。