MUSIC

Tha Blue Herb ILL-BOSSTINO(#1)

 
   

Interview by Shizuo Ishii 石井志津男 Photo by Yoshifumi Egami

2013年4月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

Tha Blue Herbが東京でLiveをすると聞きつけて、予定したライターとTha Blue HerbのフロントマンILL-BOSSTINO(以降BOSS)のスケジュール調整をしていた。だがBOSSから「札幌行きのフライト前に恵比寿周辺で」とのリクエストで、うまく調整できなかった。BOSSはインタヴュー前の8日〜10日までの3日間を吉祥寺、下北沢、代官山で全力のライブを行った。その翌朝、つまり2013年の3月11日、11時に恵比寿の某ホテルで彼をピックアップし、さっそくクルマの中の世間話から録音開始。

●よくBOSSのMCで1945年が出てくるね。

BOSS(以降B):1945、この国にとっては重要な年ですよね。

●実は俺が1945年生まれ。自分では戦後生まれだと思ってたら8月15日の終戦前の生まれで、正確に言うとちょっとだけ戦中派っていうことに気がついて(笑)。

B:どこで生まれたんですか?

●千葉県の鴨川っていうところです。

B:いやぁでもそれ、街が街だったら死んでたかも知れないでしょマジで。

●東京空襲に行くB29が上空を毎晩飛んでいって東京の空が真っ赤になったとは親に聞いてるよね。
 それと、予定してたライター(有太マン)だけど、昨日は東京にいたけどもう今日は福島に行って放射線量を測る仕事をやってるらしくて、俺もよく分かってないけどもう何ヶ月もやってる。彼は凄くBOSSのインタヴューをやりたくて「何とかなんないですか?」って言ってきてたけど断念しました。
でもBOSSからの返信で今日と言うとんでもない日(3月11日)って言われたら、今度は俺もRiddim Onlineとしてマジで断れなくなって、しかたなく俺がやろうと思ってます。インタヴュアーとしては史上最低の部類で、不得手だってのはすごく分かってるんだけど、今回だけは失礼だけど是非やらせてもらおうと思ってます。

B:いえいえ光栄です。相変わらず、スケボーやってんすか?

●あっはは、やってる(笑)、八王子にあるデカいコンクリート・パークで森田(FESN)と会っちゃったりするんだ。去年の夏、タオルを被ってヘルメットして狂ったようにものすごいスピードでプッシュしてる怪しいやつがいて、それが森田だった。実は情けないことにこの前、森田に電話して「BOSSのインタヴューするんだけど、自信がなくて大変なんだ」ってジジイが若者に相談、そしたら「俺行っていいですか?」って、だからあいつ来るかもしれないよ。

B:出たっ、、、最近あんま会ってないんだよな森田君と。毎日お互い忙しくて。

●言ってた言ってた、「俺会ってないんだよね」って。(編集部注:森田貴宏はFESNを主宰しブランドLibe Brand Univs.をプロデュースするスケーターであり映像作家としてもTha Blue Herbの『演武』、『That’s The Way Hope Goes』、『Straight Days』、『Total Works』の映像4作品を監督している。)

と、そんな話をしているとクルマは青山のOVERHEATに到着。時間もないのでインタヴュー中に写真撮影をすることにして、先ずはRiddim Onlineの説明。

●写真を撮るけど、やっぱ写真に関して言えばWEBっていうのは情けなくて、紙でやってた(Riddim誌)ような解像度では使ってないんだ(カメラマンの権利を守るためも考慮)。WEBはこれでちょうど二年、一昨年の4月1日、エイプリルフールにRiddim Onlineを立ち上げたんだ。

B:じゃあ3.11のあとに、直後で?

●そう、3.11の後、元々そうしようと決めてたんだけど、あと3.11も大きいね。

B:沼田さんの連載超好きでしたよ俺、ニューヨークのHip Hop、あれだけはHip Hop色濃かったですよね、しかも現場の話で、結構見てたな。

●ありがとう、ではインタヴューいきます。俺はすごく熱心なBLUE HERBファンじゃないから、ごめんね。

B:大丈夫です、そういう人にも伝えたいので。

●音楽じゃ無い事も是非聞きたいなと思って、リリックを読んで深いところでスゲえなと思ってることがいくつかあるんだけど、このあと空港に行く限られた時間だから、今日はそこまでいけないかもしれないと思ってるんで、よろしく。

B:はい。

●一昨日の下北のLiveがソールドアウトでチケットを買えず、招待にしてもらってありがとうございました。あの時やった曲で、タイトルが分からないんですけど原発のことを歌ってる曲があったじゃないですか?

B:はい、あれは「NUCLEAR DAMN」っていう曲です。

●あれをLiveで聴いて、僕なんかでも思ってるようなことをほとんど言ってくれてると思ったのね。そこに置いてあるアルバム(『NO NUKES』)を見ながら)、1979年にNYのマジソン・スクエア・ガーデンで、あのコンサートをたまたま観ちゃったんです。「何?ノーニュークスって?」みたいな状態でしたが、その後でこのLiveアルバムを買ったりして、5~6年したら今度はチェルノブイリ事故が起きちゃった。その頃マネージメントしていたMUTE BEATっていうバンドのアルバムジャケットでスリーマイルの写真を使ったりとかしてずっと問題意識だけはあった。でもそれは拳を振り上げるんじゃなくて、一般の俺たちも意識してるぞっていう意思表示。相手はものすごく得体の知れない、敵と言ったらいいかどうかも分からない、システムって言うのかも分からない、なんかそういうものには普通だと歯向かえない、もっと言えば気がつかない、敵って分かるんだったら戦うこともできるかもしれないけど分からないぐらいの、普通に吸ってる空気ぐらいすごい存在と戦うには、本当に八百屋のおやじとか、要するに俺みたいな普通なやつ(笑)まあそういうやつが意識を持つっていうことだと思うんだ。

B:いや、そうですよね、そう思う。

● BOSSのリリックを聴くとそういう事をきちっと言っていて、ああいうすごいリリックを書くあなたを生んだ両親が気になってね、家族のこととか話してもいい範囲で教えてもらえたら嬉しいです。

B:両親からは無論思想的な面もありますが、何というか、自分の思想をどう使うかっていう面で大きな影響を受けてますね。結構今思えば保守的な田舎町だったんですが、周りに属さずに自分等のペースで生きていた家庭だったと思います。自然食とかも80年代には既に取り入れてましたし。割とガキのころから保守というよりかは革新というか、マスというよりコアというか、自然とそうなってきたっていう感じなんですよね、だから本当に人と違う意見を言うって事が、信じている事であるのならば「是」なんだよっていうか、そうするべきだよ、どんどんやんなよみたいな事をずっとガキの頃から教えられていたような気がする。だから俺的には意識がずっと変わってないですね。マイノリティだけど全然、正しいと思ったんだったら周りに流されずに絶対言った方が良いよっていうのを、今、もう41なんだけど、ずっとそれが消えずに自分にある。そう教えられたのをそのままやってるっていう感覚が強くて、だから原発に関してもどう見ても無いでしょみたいな。もちろん「チャイナシンドローム」も見たし、チェルノブイリ事故もあったけど、でも俺は函館のすごい田舎に住んでたから、俺のガキの頃っていうのはまだそこまで、その周りに覆ってる空気ってところまで敏感に感じられてなかった。それがまた彼らのすごい頭の良いやり方ってとこなんだけど、俺たちの知らない所に完全に根を張ってる最中だったっていうか、気付いてなかったっすね、そこまで巨大なものだっていうのは。

●まあ当事者たち以外は誰にも分からない。

B:誰もわからないっす。

●あまりにうまくやってる。

B:もし二年前に起きなかったら、まだ俺らも気付いてなかったかもしれないことかもしれないですよ本当に。

●そうだね。

B:まぁどっちにしろ情緒的には原発はやっぱないでしょっていうか、そう意識は持ってましたけどね。

●また原発入っちゃうからこのくらいにしておこうか。

B:いや全然、石井さんの好きにしてください、全然大丈夫です、どこでもいくよ俺は。

●OK、で、この間のLiveの第一印象ですごく嬉しかったのが、今まで見たRAPのショウの中では確実に言葉が一番聞き取れた。

B:本当っすか。

●それを、ひとつの目的としてやってるわけだからね。

B:本当っすね、それ、基本ですよ。

●でも本人を前にして言うのは、まあちょっと嫌だけど、、、、カミサンと二人でクルマの中でリリックを聞いてて、花粉症になっちゃったんだ(笑)。見たらカミサンもハンカチで涙拭いてて。

B:ありがとうございます、嬉しいです、いや本当にHip HopとかBLUE HERBとかっていうものの完全にコアじゃない人にも花粉症になってもらえるような音楽作っていかないとどうしようもないですもんね。

●正直、RAPのCDで泣いたのは初めてだ(笑)。1MC、1DJ にものすごくこだわってるわけじゃない、どうしてですか?

B:昔は割と楽器を入れたり、ボーカル入れたりだとか、もう何でもありっていうか、セッションも沢山やるし、飛び入りもやるし、フリースタイルもやるし、ジャムもやるし、みたいな事がすごい好きだったんですよ。それこそ90年代から2000年代の頭までとかはそういう事ばっかりやってた頃で、そこでもうその限界は見たかな。もう果てしなくどこまでもいける事はわかっちゃったっていうか、今度はだからそうじゃなくて一番小さい単位でやりたい、すごい大人数で一つのものを目指すよりも、一番少ない人数で最大を目指したいっていうか、全てコントロールしたいってのが強くなりましたね。だから今は1MC、1DJでやってるけど、実はPAさんもいて照明さんもいるっていう、実際俺とDJとPAと照明の4人でやってるっていう感覚が凄く強くて、だからボーカルのエフェクトもコンマ何秒の世界を突き詰めたりとか、照明も僕の言葉とのタイミングの合わせ方というのも、大人数じゃとても詰められないようなレベルの話を4人でしてるというか、その質を求めていったら自然と自分がコントロールできないものというか、偶然待ちの部分をどんどんどんどん削ぎ落としていった感覚が強いですね。最後に残ったのがこの単位というか、そういう感じですね。

●BLUE HERBというグループだから当然トラック・メーカーにこだわっているというのは分かるんだけど、俺は曲によっては違うトラックでも聴きたいとかね。これは悪口でも何でもなく、個人の好みって百通りも千通りもあるってことで言わせてもらうと、アルバムの中ではね、違うトラックでも聴いてみたいなってのもあるんだよね。

B:ライブでは半分以上は全部変えてますからね、トラックに関しては。レゲエのトラックも入れたりだとか、その部分は遊びの部分というか、割と好きにやってるっていう感覚はあるんですけどね。

●なるほど。札幌にこだわってるわけですよね、それをもう一度教えてください。

B:やっぱ先輩が多いからですかね、札幌がいいのは石井さんと喋っても本当同じ感覚になるけど、やっぱり先輩が元気で音楽に携わってる人が多いから、そういう人がいると41〜2で多少東京でLiveができても天狗にならないですみますね。お金だとか、Liveで沢山人が入ってくれたとかっていうのは、結局そんなのは一時的に過ぎないんだってのを常に思ってるというか、僕もこれくらいになったなんてとても思わない雰囲気っていうのが札幌の音楽の世界にちゃんとあるんです。上にすごい知識と経験の先輩達がでいるんで、そういう人がいると謙虚になれていいっすよね。「ちわっす」、「お疲れさまです」みたいな、そういう感じですね。もう俺、41だから日本中どこに行っても呼んでくれてる人も殆どの場合は俺より年下だし、箱のオーナーも俺より年下の事が多いし、言っちゃえば一晩の中で会う人全員が俺より年下かもってことがほとんどじゃないですか。時々俺と同い年のやつらとかも来て、もちろんその箱じゃ一番年上です。そしたらそいつとかも「もう若いのばかりでつまんないんすよ、俺ね41になって久々に現場きたけどさあ」みたいなことをほざくんだけど、馬鹿かお前みたいな、俺はそういう事があったらみんなの前でがっつり言うんだけど、勘違いすんなよって。たかが41なんてまだ始まったばっかりだろう、こっから楽しいんだぜって。でもそこのやつらは大体が何の事言われてるのかわからない顔をするんですよ、「え?」みたいな。そこの段階で根本的に俺とは違う。それが俺にとっての最大の強み、札幌という街の。飯がうまいとか気候がいいとか、そんなことははっきり言ってどの街も良いです、住めば本当どこも良いし、47(都道府県)行ったけど全部いい、どの街も。何が一番違うか?、音楽の道において先に進んでる先輩が沢山いるかいないかって、そこが決定的に違う、それが最高です。

●ちょうど41歳のサックスプレーヤー(巽朗)をデビューさせます(笑)。

B:いいっすね、いやあ、いいですね。

●Determinationsっていうバンドにいたやつで。

B:はいはいはい。

●たしか2000年くらいにアルバム出したから、13年くらいの付き合い。

B:東京のバンドなんですかDeterminationsって。

●いやぁ大阪のバンドでした。当時BOSSのインタヴューをエレキングか何かで読んだら「俺たちを観たけりゃ札幌に来い」みたいなこと言ってたよね。

B:ああ、はい。

●それをちょうど読んでて、俺も同じようなこと考えてた。10人くらいの大阪のスカバンドを東京になんか有り得ないから、見たけりゃ行けばいいやっては思ってたけど、こいつらは札幌か、東京のやつらも大阪までは行くけど、すげえなこいつは生意気だなって思って覚えてる。

B:ハッハッハ(笑)、本当、生意気ですよ本当。

●その中の一人がちょうど4月にデビューで、本人から発売のコメントがきて「41歳の新人です」って書いてあった。

B:じゃあタメっすね。いいっすね、何歳からでも始められるんですよ。俺ももう41だけど実際レコード・ディールっていうか自分でレーベル作って始めたのが27〜8なんです。実際音楽で全部借金返し終わって飯が食えるようになったのは30くらい。やっぱそれくらいまではやるかやらないか、続けるか続けられないかってギリギリで、靴下なんて穴あいていたりとかさ、ボロボロのスウェット着て、毎日500円くらいで飯食うみたいなそういう生活をしてたやつは、はっきり言うけど金のありがたみの感覚が全然違う。だから21〜2でRAPとか、ディールを持ってやってるような奴等とはそこが全然違うっていうか、一回のLive、ギャラの重さ、そのギャラには何人分のチケットのお金が入っていて、お店はどれくらい持ってって、飛行機とか経費抜いたら実はオーガナイザーにはどれくらいしか入らなくてっていうのが全部わかってるから、それで貰えるお金っていうのは重いです。だから自ずと昨日みたいなLiveをやろうって気になる。そのバランスをとるにはどうすれば良いかっていうと、お客さんにもちゃんとお礼を言うし、お客を“客”とは絶対呼ばないしみたいな感覚を自然と学んでいきますよね。だから逆に遅くて良かったなと思います。21〜2でいきなりパンってそれなりになったとしても、苦労したそこを学ぶのって実はすごく難しいというか、やっぱり俺は逆に幸運だったなって思う時はありますよ。

●あっ、そうだ、アルバム『LIFE STORY』(07年発売)の9曲目と10曲目がね、俺はハマった!「We Must Learn」とその次の「Tenderly」の(“行き着く所は、、、、、、見返りを求めずに与えることだ”と言うリリック)優しさ、あそこがまたすごく良いんだよ。その2曲の繋がりっていうか、でね、こういうリリックを書いてる人に、、、人間って、実はすごく非情な生き物でしょう?極論で言えば、他人を殺してその肉を食うという所詮は動物でしょ? でそこを分かっていてあれを書けるのがすごいなと思ったんだ。だからあれ(『LIFE STORY』)を出して、それから3.11があって、今日は2年経って、本当に3月11日。

B:そうなんですよ。

(以下後半次回に続く)