MUSIC

Leroy “Fatman” Thompson

 
   

nterview & Photo by Shizuo Ishii (石井志津男) Translated by CB

2015年5月にRiddimOnlineに掲載された記事です。

ジャマイカで好きなことのひとつがニックネーム。子供のときについたアダ名がオトナになってもそのままついているのがすごく好きだ。チビ、デブ、ヤセなどその直接的なアダ名は、日本のイジメ感覚ではないからだ。
それ故、自らの身体の特徴を特長にしたYellowmanというステージネームも愛されリスペクトされるのだろう。
そんなジャマイカのおデブちゃんエンジニアの知り合い3人の内の1人、”Fatman” ThompsonがJimmy Cliffのツアー・エンジニアとしてやってきた。

●かなり久しぶりだね。一番最初は1988年に、King TubbyのFirehouse スタジオでTubbyから君を紹介されて、そのずっとあとになってJammy’sスタジオによく行くようになったら、君が働いていてびっくり。もう30年近い知り合いだけど、ほとんどあなたのプロフィールを知らないので教えて下さい。

Fatman(以下、F):本名はLeroy Thompsonだけど皆にはFatmanと呼ばれている。1966年にキングストンのWaterhouse(Tubby'sスタジオがあったエリア)で生まれて育った。僕が通っていた学校ではサマージョブというプログラムがあって学校がレターを書いてくれて、僕はそのレターを持って家の近所にあったKing Tubbyのところへ行ったんだ。だけどKing Tubbyはプロフェッショナルなら欲しいけど、今の君の働く場所はないと断られました。卒業した1983年にもう一度彼のもとを訪ねました。その時も今は要らないからまた来いと言われたんです。ただKing Tubbyは、僕ととても仲が良い友人に僕の事を聞いていて、結局は僕も働けるようになったんです。King Tubbyは電気機器を修理できる優れた技術を持った人が欲しかったんです。

●なるほど、俺がKing Tubbyに最初に会ったのは、Wayne Smithがラジカセを修理に行くから俺のタクシーに便乗させてくれと言われて、着いたところがTubby’s Firehouseスタジオだった。今度は次の年にもう一度行ったんだ。Mute Beatのマルチ・テープを持ってDMX(宮崎)たちとTubbyにリミックスをしてもらいに行ったら、若いエンジニアだった君とPiegoという二人を紹介してくれたんだったね。

F:僕が行った頃のエンジニアにはProfessorがいたんだ。最初は月曜日だけ働き始めてProfessorがいなくなってからは、僕がスタジオでエンジニアとして働くようになったんです。

●レコーディング・エンジニアとしては、そこで学んだということなの?

F:そう。King Tubbyが全て教えてくれました。

●それまでは音楽のことは何もやっていなかったの?楽器とか?

F:全くやっていなかった。だって学校では電気技術を学んでいたんだ。だからラジオやテレビをリペアーしていただけでした。

●Piegoと君が当時の若手のエンジニアということでいいのかな?

F:Piegoは僕よりも先にスタジオに出入りしていたけど、まだエンジニアではありませんでした。どちらかというとただそこに居るだけでした。そんなある日King TubbyはPiegoと僕の二人に教え始めたんです。だからPiegoと全く一緒にスタートしました。

●その頃のFirehouseにはKing Tubbyの他に誰がエンジニアはいたのかな?

F:Phillip Smartがいました。Scientistもいましたね。あとはPat Kelly, Jammy, Professor, Chemistもいました。僕がJimmy Cliffのスタジオで働くようになってからは、PiegoもBobby Digitalのスタジオに移りました。新しくBantonがKing Tubbyで働く様になったときは、僕が彼をトレーニングしました。だからKing Tubbyが亡くなった時はBantonが働いてましたね。

●King Tubbyはなぜ射殺されたんだろう?

F:う~ん、、、それは今でも謎のままだね。もちろん色々な噂はあるさ。だが本当の事は誰にも分からない。とても悲しい出来事だった。彼は家の前で殺されたからね。聞いた話によると殺したヤツは警察によって既に殺されていたというから本当のことは誰にも分からないんだよ。ただ素晴らしい人が殺されたという事実だけです。

●King Tubbyが教えてくれたことで何か印象的な事はありますか?

F:全てについてとても気長に色々と教えてくれました。Piegoと僕にはOKが出るまで付き添ってくれました。素晴らしい先生でした。それは生徒を見れば分かるよね。Pat Kelly, Jammy, Professor, Chemist、、、沢山の優れた愛弟子がいました。
彼が教えてくれたとても重要な事は、アーティストがスタジオにいる時は、たとえそれが練習であっても、常にレコーディングをしておけということです。ごくまれにその時の歌い方の方が格段に良い時があるからです。いざレコーディングとなるとアーティストはテンションが上がりすぎて集中出来なくなっる時もある。だから「リハーサルだよ」と言って歌わせてもレコーディングをしていました。

※ 時代はちょっとずれるが、ジャマイカではマルチレコーディング・テープは高価で貴重な物。
テープ業者などは存在せず、マイアミやNYで購入し手持ちでジャマイカに持ち込んでいた。だから24トラックのAMPEX 456テープは通常19cm/sのスピードで回転させ、テープのギリギリからレコーディングしてなるべく1本のテープに沢山の曲をレコーディングしていた。日本ではより高音質ワイドレンジを確保するために倍速の38cm/sのスピードである。つまりジャマイカでは日本の倍の長さ(曲数)で使用していたわけである。だから練習からレコーディングするなどというのは、高価なテープを無駄にしかねないことで、King Tubbyがそれを率先して実行していたというのは、常に良いテイクを逃さない彼のひたむきさが強く感じられる話だ。余談だが、レコーディング時のテープスピードが遅ければ低域の特性が良くなると言う利点もあり、レゲエ特有の低域偏重にはピッタリだったとも言える。

●若い時にレコーディングでミスしたりして怒られたことは?

F:もちろん怒られ時もありました。だけどみんなの前で怒ることはなく、いつも奥の小さい彼の部屋に呼ばれて怒られていました。

●ああ、僕もその部屋に入ったことがあるよ。マスター・テープが山と積まれた細長い部屋だったね。そのマスターを見て「日本で出したいね」と言ったらあせらずにまた仕事をしようと言ってくれた。とても残念だよ。

F:4トラックのレコーダーで録る時には、1トラックにドラムとベース、2トラック目はピアノ、ギター、オルガンなどのホーンセクション、3トラック目にはリードボーカル、最後はバックグラウンド・ボーカルでした。でもアクシデントでどれか1つのトラックを消去してしまう事があったからね。

●King Tubbyと言う人物はどういうパーソナリティーでしたか?

F:誰が来ても誰の事でもJacksonと呼んでいましたよ(笑)。理由はまったく分からないですが。彼はとても正直な人でした。そして、とてもシャイで外出もあまりしませんでした。エンジニアのセミナーで呼ばれた時も僕が行く様に言われて僕が代理で講義をしていました。飛行機嫌いでもありました。そういえばホラー映画も嫌いでしたね(笑)。それとスタジオでシャツを着ているのは見たことがないでね。いつでもマリーナ(ノースリーブのランニング)を着てました(笑)。

●King Tubbyが殺されてからJammy’sで働くことになったんでしょうか?

F:いや、King Tubbyが殺された時には、僕はもうJimmy Cliffが所有していたSun Power Studioで働いていました。ある日道端でBunny Leeとばったり会って、そこから彼がJammy’sを紹介してくれて、それでJammy’sで働くようになったんです。

●その頃(80年代後期から90年代初め)のJammy’sといえばダンスホール時代をリードして文字通りヒット曲のオンパレード時代だね。あそこでは沢山仕事をしたはずだけど?

F:その時の僕はシニア・エンジニアとして働いていた。僕が行った頃のJammy’sはまだ8トラックのレコーダーしかなかった。でもヒットを出していたからすぐにスタジオを16トラックにして、さらにもう一度改修して24トラックにしました。他の若いエンジニアはDonald “Tixie”Dixon, Snakie, Prentoなどがいましたね。

●ああ、Tixiなら知ってるよ。あっち(Waterhouseエリア)は「ガンショットがヤバ過ぎる」って静かなガッシー・クラークのアンカー・スタジオに移って来たから知ってるよ。1~2曲はやってもらったかもね?僕はアンカーだと”Fatta"Marshallを呼ぶかGarfield MacDnaldなんかを使っていたからね。Jammy'sでの話をもっと・・・

F:僕がBounty Killerをオーディションしたので最初のBounty Killerのヒット曲はJammy’sでうまれました。L.U.S.Tの4人(Lukie D, Thriller U, Singing Melody, Tony Curtis)、Shabba Ranks, Admiral Baileyなど沢山のアーティストがJammy’sでヒットを連発してここで育ちましたよ。

●ハリケーンの中心みたいにヒット曲を出していたね。じゃあWayne Smithとは?

F:Sleng Tengについては、僕が働く前にもう既に誕生していたんだ。だからSleng Tengをレコーディングし直したことはありますけどね。Anthony Red Roseの「Under Mi Fat Thing」はKing Tubbyの所で辞める前のProfessorがMixしました。でも彼の「Tempo」はKing Tubbyの所で僕がMixしました。

●うわ~!、それはそれはすごい!!「Tempo」は一番好きなリディム・トラックでベスト・チューンだ。あれはデンジャラス!しかもやばいミックスだ! あのトラックはNoelがプレイしたの?

F:いや、Noel Daveyは「Sleng Tengだけど、「Tempo」はAshaです。AshaはAnthony Brissettという名前でBlack Uhuruのキーボーディストで彼がプレイしたんです。

●そんなレゲエ史に残る名曲に携わっているFattmanなのに、なぜ今まで自分名義のアルバムが出ていないんだい?

F:う~ん、、、実は一度はやったんだけどね、それはKing Tubbyのトリビュートアルバムということで曲を選んで、、、それをロンドンで出すと言われてある男に渡したんだけど、今もってどうなったか分からないままです。その男を友達だと思ってたからミックスもエディットも全てやって、あとは出すだけだったと思うけど。(これは筆者の推測だが『Fatman Presents Unleashed Dub』のことでは無いだろうか?)
でも頭の中にアイデアはあるんだ。オールドスクールのスタジオで録ったモノを出したいね。キング・ジャミーズでやったモノならPro Toolsを使ってないテープものだけで出したい。テープのサウンドは厚みがあるからね。Bunny Leeのスタジオのもやりたいと思っていたがBunny Leeのスタジオは焼けちゃったから、、、もはや無理だね。

●えっ!

F:そうだよ、一ヵ月くらい前に焼けちゃったんだ。だからTuff Gong Studioモノでやるしかないかなァ。

●人物としてKing TubbyとKing Jammyの違いはどういうところでしょうか?

F:King Tubbyはとても静かな人でした。例えば誰かを叱る時のKing Tubbyは彼の部屋の中で、King Jammyは外でっていう感じかな。

●さっきJimmy Cliffのスタジオで働いていたこともあると言いましたが、今回もJimmyのツアーで来日したわけだけど、またいつからJimmy Cliffの所に復帰したんでしょうか?

F:1年くらい前です。

●では、もうJammy’sでは働いていないの?

F:働いていないよ。彼の息子たちがやっています。King Jammyには4人の子供がいて、みんなプロデューサーかエンジニアをやっているからね。John John, Chrsitopher, Jam 2, Trevor(Baby G)、みんなプロデューサーですからね。特にTrevorは活躍していてJr. Gongと作品を出しています。みんながJammy’s Studioに居るわけではないし、彼らは彼らで自分たちのプロダクションをやっているわけですが、僕も今はJeffという男がやっているReal Links Productionsでエンジニアをしています。とても良いスタジオだよ。

●個人的に知ってるのはJohn Johnだけだな。今回のJimmy Cliffツアーはオーストラリアを廻ってきたんだよね?

F:最初にニュージーランドへ行ってオーストラリア、そして日本です。

●じゃあ昨年も来てたのかな? 昨年はGreenroom Festivalに行ったから、バックステージへ行ったらもうJimmy Cliffもみんな帰っちゃった後だったんだよ(笑)。一昨年Jimmyにインタヴューした雑誌を渡そうと思ってね。
JImmy Cliffインタヴュー →
http://www.riddimonline.com/archives/5431

F:僕たちはショウが終わったらすぐ帰りましたね。

●90年代の初めの頃はBobby DixonのDigital Bスタジオをよく使っていてPiegoにもお世話になったよ。彼は今は何をしていますか?この前Digital-Bスタジオの前を何度か通ったので寄ってみたけど、いつもいなかったね。彼に最後に会ったのは1人で運転してJammy’sに行ったから、ついでにFirehouseを見たくなって行ったときだね。もう他の人が住んでいて、スタジオのドアの彫刻だけがそのままだった。諦めてドライブしてたらストリートのベンダーから俺の名前を呼ぶヤツがいて、みたらPiegoだった。それ以来会ってないな。

F:いや、僕も全然分からないね。結婚してアメリカに移り住んでいるんじゃないかって聞いたことはあるけど、たぶんBobby Digitalと仲が良かったから、彼は知ってるんだろうね?

●では最後に、Fatmanがエンジニアとして一番大事にしていることは何?

F:自分の仕事に集中して[能力を最大限に出す]、ただそれだけだ。ライブ・ショウのエンジニアならこれが最後のショウだと思って臨むことだね。